M→R




先日いつか美術方面に進みたいという夢を持つ小学3年生の方からこんな質問を受けました。



「絵を勉強すると何に役立つの?」



その質問を受け、科目は違いましたが同様の質問を先生になげかけた昔の私を思い出しました。

返答は「文部省で決められているから」

私はこの返答に、大変がっかりしたことを覚えています。この返答には、その先生が私たちに何を教えようとしているのかという要素が全く含まれてなかったからです。


私が今、このアトリエでしようとしていること、日々感じ考え大切にしている核は何かというこのシンプルかつ鋭いこの問いかけに対し、丁寧に返答しなければとおもい、しばらく考えてからこんな話をしました。


「帰ったら“鉛筆”という言葉を辞書で調べてみて。きっとそこには“筆記具の一つで木製の軸に黒鉛と粘土で作った芯を入れたもの”といったような説明が載っていると思う。そして、今度はあなたが知っている“鉛筆”について考えてみてほしい。鉛筆デッサンのために鉛筆削りではなくナイフで鉛筆を削るようになり、様々な硬さの鉛筆を使い分けるようになった今、きっとあなたはこの辞書に載っている以上の“鉛筆”をすでに知っているし、芯の硬さの違いによる筆圧の違いだって手が感じていると思う。鉛筆が文字を通してだけではなく、様々な表現を生み出す可能性も感じ始めていると思う。こんな風に、知識としてではなく、自分の五感を使って触れ、感じ、表現に置き換えながら様々な物事、さらにはこの世界のあり方に向き合い、自分なりの解釈をもつことが、表現を学ぶことの一番面白いことなんじゃないかな、って私は思う」


私もとっさのことだったので、これ以上自分の考えを咀嚼することができず、こういった説明で終わりました。それでもいつか、こんなことを話したなという記録を残しておこうと、このやりとりをブログに記録することにしました。


その日の夜、一人でこのことを考えながら過ごし、ふとイギリスの大学院でパブリックヒストリーを学んでいた頃にであった一節を思い出しました。


「歴史の半分は図書館の本棚に収められ、そして残りの半分がゴミ箱の中に投げ捨てられる」

by Maurice Richards


本来正当に評価されるべき大小様々な過去が、政治的目的や個人的な目的のために取捨選択され、そのふるいの中に残ったものだけが博物館やメディアを通して私たちの元に日々届けられる現場を表現した一節です。


パブリックヒストリーは、人々の記憶やアルバムなどの個人的にコレクションされたものの中にのみ眠る「非公式の歴史」をどのように歴史の中に正当に位置付けていくかを考える学問でした。


描くことと歴史で方法は違えど、結局私は昔から変わらず、大きな流れの中に表現されている世界のあり方と、自分の周りに広がる世界のあり方のひずみを探り続けることで「これが私が生きた世界」と言える風景を求め続けているようです。


atelier tittaでは様々な年齢層のこどもたちが、自分で身の回りの物事を視て表現に置き換える経験を、少しずつ積み重ね始めています。


彼らはいつか、木から落ちるリンゴのような何気ない日常の一場面から世界の新たな構造を見つけるかもしれません。


昨今、義務教育はこのような表現の分野の価値を二の次にしている傾向があります。

私が子供のアトリエを開いた理由は、絵画の技法を教えるのではなく、まなざしを育む場を子供たちのために確保したかったからです。

受験指導をお断りしている理由もそこにあります。


ここでの経験が、いつか様々な方向に進んでいかれる皆さんの支えとなり、自分たちの力で世界を創る小さな力となりますよう願っています。

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